岩手・宮城県をまたがり流れる北上川。
その源泉は岩手県御堂にある「弓弭(ゆはず)の泉」といわれています。そこから岩手県の中央部を南下し宮城県津山町で北上川と旧北上川に分流し、北上川は北上町の追波湾へ、旧北上川は石巻市の石巻湾に注いでいます。
249kmにわたる東北一の河川で、奥羽山脈と北上山脈の間を大小216の支流を集め、9市46町10村146万人の人がその恩恵を受けています。北上川流域は宮沢賢治、石川啄木、柳田国男などの文学者が活躍してきた舞台でもあり、川と文化の深いつながりがあります。
この北上川コンサート2003「水の音原風景」は、2001年3月に環境百年計画を策定し「新世紀未来宣言」を行った岩手県紫波町の協力を得て実施しました。
紫波町は北上川の上流に位置し、循環型社会を創り、地域の水や森などの自然とともに生き、美しい自然を百年後の子供たちに伝える活動を積極的に推進している町です。その町内の北上川河川敷で、町と地域NPOの方々と連携し実施致しました。
当日はこの時期に珍しい大型台風の直撃で屋内会場での実施となりましたが、大勢の方にご来場いただきました。雨音を聴きながら、幻想的な舞台を通じて、北上川の源流から河口までその水のつながりを感じていただきました。
なお、この北上川プロジェクトは、今後、北上川の上流から下流まで、その流域において継続的に実施していきたいと思います。
皆様方のご協力をよろしく御願い致します。
北上川コンサート2003「水の音原風景」
※2003年日本水大賞・審査部会特別賞・受賞記念プロジェクトとして位置づけます。
2003年8月9日(土)
開場:午後3時30分/開演:午後5時30分
岩手県紫波郡紫波町・サンビレッジ紫波
※雨天のため、屋内会場での実施となりました。
岩手県、国土交通省東北地方整備局岩手河川国道事務所、北上川流域市町村連携協議会、NHK盛岡放送局、IBC岩手放送、テレビ岩手、岩手めんこいテレビ、岩手朝日テレビ、エフエム岩手、岩手日報、盛岡タイムス、朝日新聞盛岡支局、産経新聞盛岡支局、毎日新聞社盛岡支局、読売新聞盛岡支局、河北新報盛岡支社、NPO法人紫波みらい研究所
この「水の音原風景」北上川プロジェクトは環境事業団・平成15年度地球環境基金の助成を受けて開催されました。
≫環境事業団ホームページ
講演、コンサートの前に、北上川の水環境に合わせた体験プログラムを実施いたしました。
こんばんは。
ひと月前の新聞に、日本人の好きな童謡についてのアンケート結果が記載されていました。第1位が「赤とんぼ」、第2位が「ふるさと」、3位が「赤い靴」、4位が「みかんの花咲く丘」、そして、第5位が「夕焼けこやけ」。
幼い時に見た自然や遊んだふるさとの光景が上位を占めております。これらの歌には私たちの心のふるさとがあります。次の世代を担う子供たちにもいつまでも残る美しい自然、ふるさとを残してあげるのは、私たち大人の責任かと思います。
当紫波町は北上川が中央を流れ、緑と水のきれいな美しい町です。北上川はご存知のように岩手町・御堂にある弓弭(ゆはず)の泉から当岩手県を南下し、やがて宮城県の津山町でその流れは二つに分かれまして、一方は北上町、一方は石巻から太平洋に注ぎます。かつては経済の大動脈であり船が往来しておりました。また、多くの文化も育んでまいりました。
私たちは北上川の歴史と文化を掘り起こし、その環境保全に努め、紫波町民が憩う緑と水の空間を創造しようと今から3年程前に「川を知る会」を発足いたしました。その年の7月に宮城県の北上町に海岸清掃隊の一員として参加してまいりました。
参加したいと思ったのはこんな理由がございました。私は毎朝夕、犬を連れて近くの土手を散歩しております。少しでもきれいにしようと思い、私の愛犬のもも子と二人三脚でゴミ拾いをしておりました。ある時、川が増水し、大量のゴミが岸辺に漂着しておりました。それを犬と一緒に拾っておりましたところ、ある方があたかも無駄なことをしているかのように、こんな風に驚き、こんな風におっしゃいました。
「なあに、また大雨になれば、そのゴミは流されてなくなるよ」
こう私に話かけてきました。私は驚きました。
確かにそこにあるゴミは大雨が降れば流されてなくなるかも知れませんが、また、新たなゴミが漂着しますし、その流されたゴミはけっしてなくなることはない。また、私はその行き先を調べてみたいと思いまして、その北上町に海岸清掃隊の一員として参加いたしました。確かに下流に行くにつれ川は汚れ、臭いが立ち込めてまいります。よどんでおります。私たちの行いというのは、水に石を投げれば波紋が生じるように、必ず何かしらの結果を生ずるのです。
こんな事件がありました。ある夏の暑い日。私の犬のもも子が岸辺のゴミを拾おうと土手を駆け下りた時に、「キャン」と言ってうずくまってしまいました。近寄ってみるとそばには鋭利に割れたガラスビンが散乱しておりました。誰かが何気なく捨てたガラスビンなのでしょう。それを犬が踏んでケガをしました。犬の足の裏からは血がボタボタとたれており、犬はショックと痛さのために動くことができなくなりました。
幸いにもケガの方は一ヶ月程で完治しましたが、捨てた人は犬をケガさせてやろうと思って捨てたわけではないと思います。しかし、そのちょっとした心ない行為が犬をケガさせるという残念な結果につながったのではないでしょうか。
また、新聞にこんな記事が出ておりました。日本の海岸に死んで打ちあげられる海亀がいる。日本の浜辺は彼らにとって生まれ故郷。その浜に死体となって打ちあげられる海亀の胃の中を調べたところ、死んだ海亀の多くが好物のクラゲと間違えてビニール片やプラスチックの破片を食べていた、ということです。
産卵に備え海亀は一生懸命エサを食べるが、日本列島に近づくにつれて腹いっぱいそれらの漂流物を食べて、やがて死んでしまう。ですから、私は海から離れたこの紫波町から流されたゴミが海亀を死に至らしめているということもありえないことではないと思いました。
このように、何気なく捨てたゴミが生きとし生けるものを苦しめているのです。もちろん、紫波町はゴミポイ捨て禁止条例が制定されている町です。この会場にいらした方はタバコの吸殻一本をも気をつけて下さるものと信じております。紫波町は100年後の子供たち、孫、子孫に素晴らしい自然環境を残そうと循環型社会を目指し、生きとし生けるものの命を大切にする町づくりを目指していることは本当に私はすばらしいことだと思っております。
北陸、福井県の曹洞宗の修行道場・永平寺の正門に石の門が立っております。これには、「杓底の一残水、流れを汲む千億人」の文字が刻まれています。
「杓底の一残水」、「杓」は柄杓の杓、「底」は底。曹洞宗を開いた道元禅師は谷川の水を汲み取り、それで口をそそぎ、顔を洗い、そして、余った時はたとえ柄杓の底に残っているわずかな水であってもわざわざ川に歩まれて元の谷川の水に返したということが伝えられております。
ある時、お供をしていた弟子が残った水をわざわざ川に返さなくてもこの場にお捨てになってはいかがですかと申し上げたところ、道元禅師は、この残りの水は子孫に使っていただくためなんだよと仰せられたと伝えられています。水はあらゆる命の源であり、道元禅師は水の命を尊ばれた方でありましょう。その美徳を偲んで「杓底の一残水、流れを汲む千億人」の字句が刻まれています。
さて、私たちは水の上に浮かんでいる船を見て、「船は水に浮かんでいる。」と言います。
「船は水に浮かんでいる。」しかし、これは事実ではないのです。船は水の力に支えられて、浮かばされているのです。これと同じように、「私たちは大自然の中に生きている」と思っております。これも思い違いです。地球上の自然の恵みによって、生かされて生きているのです。
ですから、自然環境と人間とを分離し、人間の都合によって自然環境を守るというのは、人間側から見たおごりなのかも知れません。人間が自然の恵みによって生かされている。即ち、自然は私たちの命の母体、命の母体なのです。その母体を汚染し破壊すれば、その行いは必ず人間に降りかかってくるのです。
人間は限りない欲望でもっと便利で快適な文化生活をしようと思い、この地球に身勝手な手を加えたり、様々な化学物質を作ってまいりました。その結果、海洋汚染、森林破壊、ダイオキシン、オゾン層の破壊、温暖化現象、生物種の絶滅等々、環境破壊が地球規模で進んでおります。
大事なことは、このまま人間が欲望充足の生活を続けていくならば、確実に地球は急速に病んでいくでしょう。しかし、環境を破壊したのが人間の限りない欲望であるならば、これを克服するのも人間の知恵であると思います。
飽くなき欲望や人間のおごりを反省する言葉として、「少欲知足(しょうよくちそく)」という教えがございます。言葉のまま解釈すれば、欲を少なくして、足ることを知るということですが、更に言えば、大自然の恵みによって生かされていることを私たち一人一人が自覚するならば、決して自然を汚したり、破壊することはできなくなるはずであります。そして、自然の恵みに感謝し、その恩恵に答える「少欲知足」の生き方ができるはずであります。
本日は、「水の音原風景」コンサートということで、水を中心に環境を考えるという、それが大きなテーマとなっております。水は世界を巡り、森を作り、土を作り、食物を作り、文化を育む。まさに命の源であります。
水の命を知れば、水の命を大切にすることができ、水の命を大切にすることができる人は、必ず自分の命をも大切にすることができる。そして、自分の命を大切にすることができる人は、人の命も一切生きとし生けるものの命をも大切にし、そして、限りない慈しみの心が宿るものと存じます。
「水を清くすれば、月、手にあり」という詩がございます。月の美しい夜、川の水をそっと手にすくって見る、そこには煌々と輝く月が映る。そんなロマンチックな詩情にしたたる光景を思い浮かべてみて下さい。一人でもいいです、親子でもいい、恋人でもいいです。川の水をすくってそこに月が煌々と浮かぶその光景を思い浮かべてみて下さい。誰しもが詩人になれるのです。
もし、すくった水が臭くて濁っていたらどうでしょう。とても詩人にはなれないですね。
「水を清くすれば、月、手にあり」という詩は、こう解釈できるのではないでしょうか。水を己の心。月を慈しみの心と象徴するならば、「水を清くすれば」というのは、己の心を手にすくってみてそれが澄んで清らかであれば、「月、手にあり」、即ち生きとし生ける一切の命あるものに対する慈しみの心も宿ってくる。即ち、「水清ければ月宿る」、清らかな心には生きとし生ける一切のものに対する慈しみの心が宿っているということになります。
今宵の「水の音原風景」コンサートの幽玄な音色が私たちの心を洗い清めて、己の心に慈しみの心を宿らせてくれるものと思います。そして、楽器の奏でる音色が媒介となり、大自然の波動と私たちの体が一体となって共鳴し、私たちの呼吸と大自然の呼吸が一つに溶け合う、そんな時間と空間を共に楽しみたいと思います。
どうぞ今宵のコンサートの音色を聴いて、「水清ければ、月宿る」、己の清らかな心に慈しみの心を宿らせていただければと思います。
ご清聴ありがとうございました。